3人の少年の純粋にして過激な疾走を描く
大森立嗣監督、渾身のオリジナル脚本の映画化!
『まほろ駅前』シリーズ(11・14)、『セトウツミ』(16)の軽やかな作風で多くの映画ファンを魅了し、茶道にまつわる人気エッセイの映画化『日日是好日』(18)では幅広い世代の支持を集めて大ヒットを記録。そんな多彩にしてプロフェッショナルな仕事の充実ぶりが目覚ましい大森立嗣監督は、今まさに日本映画界で最も勢いのあるフィルムメーカーのひとりである。しかし、そのフィルモグラフィーにはゴツゴツとした異物のような作品が点在しており、ひとつの型には収まらない映画作家としての底知れない個性を強烈に印象づける。長編第1作『ゲルマニウムの夜』(05)から『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(10)、『ぼっちゃん』(13)、『さよなら渓谷』(13)、『光』(17)へと至る社会のアウトサイダーたちを描いた作品群である。
長編11本目となる最新作『タロウのバカ』は、大森監督が『ゲルマニウムの夜』以前の1990年代に執筆したシナリオに基づいている。本来はデビュー作として構想していたそのオリジナル脚本に、現代にふさわしい変更をいくつか加え、とりわけ思い入れの深い物語の映画化を実現させた。社会のシステムからはみ出した3人の少年の純粋にして過激な生き様を描く本作は、上記のアウトサイダー映画の系譜に連なるが、実際に完成した作品は「映画とはこうでなくてはならない」という既成概念を打ち破る、破格の問題作に仕上がった。
思春期のまっただ中を生きる主人公の少年タロウには名前がない。彼は「名前がない奴はタロウだ」という理由でそう呼ばれているだけで、戸籍すらなく、一度も学校に通ったことがない。そんな“何者でもない”存在であるタロウには、エージ、スギオという高校生の仲間がいる。大きな川が流れ、頭上を高速道路が走り、空虚なほどだだっ広い空き地や河川敷がある町を、3人はあてどなく走り回り、その奔放な日々に自由を感じている。
しかし、偶然にも一丁の拳銃を手に入れたことをきっかけに、それまで目を背けていた過酷な現実に向き合うことを余儀なくされた彼らは、得体の知れない死の影に取り憑かれていく。やがてエージとスギオが身も心もボロボロに疲弊していくなか、誰にも愛されたことがなく、“好き”という言葉の意味さえ知らなかったタロウの内に未知なる感情が芽生え始める……。
『日日是好日』や『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』を手掛けた大森立嗣監督の長編11本目となる最新作『タロウのバカ』
大森監督が1990年代にデビュー作として構想し執筆していたオリジナル脚本に基づいている。
現代らしくする為にいくつか変更を加えているようだが、主たる部分は当時の思いそのままに作られているのではないだろうか。
そんな、思い入れの深い作品で主演”タロウ”を務めるのは今作で俳優デビューとなるYOSHI。
演技経験が無いとは思えない位に、彼には破天荒でありながらも純粋な”タロウ”が憑依していた。
タロウには実は名前がある。
ただ、劇中でその名前を呼んでくれる者はいない。
育児放棄している母親の元で育ち、学校に通った事もなく年齢すらはっきりとはわからない。
エージは彼にタロウと名付け、一緒に過ごすようになる。
タロウはそんなエージを慕っており、エージの友達スギオと3人で遊ぶ姿は幸せそうで楽しそうに思える。
エージ役には菅田将暉・スギオ役には仲野太賀と実力派俳優が顔を揃える中、YOSHIもまた彼等に負けない存在感を放っていた。
それにしても、菅田将暉がここまで多くの人に支持されるのは何故なのか。
才能の豊かさや美しさだけではないだろう。
彼の持つ、ある種独特のいびつさが私達を惹きつけるのだ。
エージもまた、どうしようもなくいびつな男だ。
どこでどう変わったのか、変わってしまったのか。
エージは光を見つけたのか、闇に飲まれたのか。
想像とは少し違う結末が待っていた。
そして、ここ数年で頭角を現した仲野太賀。
彼には注目して観ているが、今回もまた難役だ。
『来る』や『母さんがどんなに嫌いでも』もその演技力の高さを十分に感じたが、今作でもまた”スギオ”として本当にそこに存在しているかのような自然さがあった。
タロウやエージとは異なりスギオは善悪の判断がまとも…いや、どちらかと言えばまともに近い。
それ故の葛藤がスギオにはいつも付き纏う。
死と青春。
大森監督だからこその表現方法でそれが描かれていた。
監督・脚本 :大森立嗣
音楽:大友良英
キャスト: YOSHI/菅田将暉/仲野太賀/奥野瑛太/豊田エリー/植田紗々/國村隼/水澤紳吾
R15指定
上映時間:119分
公式サイト
(C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会.